「多様性とは?」
「『多様性を認める』は多様性の促進になるか?」
リベラルな学問が一般になる中、「多様性」という言葉が日本社会でも頻繁に聞かれるようになりました。
今回は、「多様性」について、その本質や気付きづらい問題点について解説します。
目次
「多様性」とは|多様性を尊重することの本質
「『多様性』が重要」と叫ばれ続け、日本社会では何年経過したでしょうか?
日本は、そもそも海を越えた諸国と異なり、異文化との交流や外国人の往来∼居住が比較的少ない国でした。
このような事実もあり、日本では「多様性」というものが芽吹きづらいという考えがあります。
しかし、「多様性」とは外国人や異文化に対するテーマでしょうか?
全人類が持つ「多様性」
「多様性」とは、間違いなく、「全人類一人ひとりが持つもの」と言えます。
つまり、「多様性」とは、その本質部分には、
「人間一人ひとり、完全あるいは部分的に必ず異なる」
という概念があります。
そもそも、人生を生きていて、「自分と全く同じ人」と出会ったことはありますか?
出会ったことがある人というのは、そう思い込んでいるだけです。
生まれ育った環境、学校教育の環境などもさることながら、読んだ本や出会った人の影響、今日と明日の感情など、様々な所で「人間は異」なります。
これは、人間誰しもうすうす感じていることです。
その為、人間関係に苦しむこともあれば、うまく自分には無い部分を調和してくれる存在と意気投合することもあります。
「多様性」とは、単なるこのような「人間相互が持つちっぽけな違い」なんです。
これは、外国人だから異なるということでもなく、他者=他の人間は少なくともどこかで異なるということを示しています。
「多様性」が含む課題点
・「『多様性』を認めよう』は、「多様性」ではない
「『多様性』を認めよう」という表現は、学校現場やニュースなんかでも耳にすることがあると思います。
しかし、「『多様性』を認めよう」は、裏を返すとリベラルな側からの一方的な主張に成り代わります。
そもそも、学校教育現場でこのような主張や教育をされる反面、異端児や少し目立つ生徒には強く当たり、画一的な教育しか出来ない教育とは、本当に「多様性」を尊重しているのでしょうか。
・人間本来の「同質性」を好む傾向
「多様性」は、本質的にはとても難しく厄介な考えや概念です。
そのため、本当に「『多様性』を認めよう」のような教育は効果的なのでしょうか?
人間は、生来的に同質のものや同じような環境を好む傾向があります。
それは、潜在的なものでもあります。
よく考えると、同じような友達が多い、同じような意見やニュースを見聞きしてしまう、同じ意見や同調をされると好意的に感じる、などです。
よく、「私は誰でも公平に付き合えるよ」という人がいます。
このような人も、実は「私は誰でも公平に付き合えるよ」という意見を持つ他の人と付き合っています。
そう思っているだけで、本当は似たような人を好み、付き合いづらい人は少なからずいるんじゃないでしょうか?
・「多様性」という逃避
「多様性」とは、そもそも存在しない概念と捉えることも重要かもしれません。
もともと人間は異なっており、一つとして完全に同じ意見や人間などは存在しません。
しかし、そのような本来的な違いをしっかりと認識せず、「多様性」という言葉一つで片づけると諸問題が発生します。
それは、他者への理解の諦めや本当の理解までの障壁、違いを「違い」という一つの概念に押し込めることになります。
このような状況では、そもそも「多様性」という概念自体が無く、人間一人ひとりは単に異なる存在という意識を共有することも重要となるでしょう。
・「多様性」=「比較」ではない
「多様性」というと、「自分とは異なる事柄」というイメージがあると思います。
「海外へ留学した際に、多様性を感じた」という意見は、もしかしたら「自分と異なる事柄」をこちらの視点から比較したものではないでしょうか?
「多様性」を知る上で、比較は重要なキッカケとなります。
しかし、比較とは「自分の視点から物事を捉えること」です。
「多様性」を尊重する上では、自分と他者を比較せず、ありのままの他を認識する必要があるでしょう。
・「多様な人々が創った社会」とは言えない日本社会の「多様性」
「『多様性』のある社会」と言われ、私たちは「多様性」が大事と無意識的に思うようになりました。
しかし、ニュースなんかで、「日本は、先進国の中で、女性の社会進出ワースト」「一度会社を辞めたら、社会復帰が難しい」など耳にすると思います。
そもそも、日本社会は「多様性」とは無縁に発展しました。戦後復興期から画一的に皆一つの目標に向かい成長していました。
しかし、欧米各国でリベラルな考え方が発展し、日本社会でもネット環境の発展に伴い、様々な価値観や意見が重要視されるようになりました。
一方で、もともと『「多様性」のない社会』である日本では、「多様性」という言葉が独り歩きし、実情全く「多様性」の無い社会となっています。
「多様性」と叫んでも、社会が「多様性」を基に作られていないため、どこかわだかまりを感じる人は多いのかなと思います。
私たちが「多様性」と向き合うためには
私たち皆は、本質的に異なる存在です。
「『多様性』を認めよう」という意見に対して思うことは、これは受け身の態度なのではないでしょうか?
「多様性」という言葉は使わず、
「自分と異なる他者は、自分の知らないことを知る貴重な存在で、積極的に相手を知ろうとする態度」
を心掛けることが重要です。
人間は皆それぞれ異なり、一人として同じ人はいません。
当然、自分の思い通りにいかないこともあると思います。
しかし、この人間本来の違いを意識することで、他者との衝突に対し抵抗も少なくなるかもしれません。
また、そのような違いを前提とし、「他者=自分が知らないことの気づき」と考え、積極的に相手を知ろうとすることで、「多様性」を重んじる人になることが出来るでしょう。
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